第二章 終活を考えるとき
ケース3「来るんでないぞ。」
私は、いわゆる「爺ちゃん子」だった。
小さい頃から、何かあるたびに、
「爺ちゃんチに遊びに行く~!」
と言っていた。
爺ちゃんは、とにかく優しかった。
小さな私の手を握って電車に乗り、あちこちいろんなところへ連れて行ってくれた。
歩きながら、
『おー手~手~ つーないで~ 野ォ道~を~ゆーけーば~♪』
なんて、一緒に歌ったことも覚えている。
子どもの頃の私にとって、爺ちゃんの家は、もうひとつの自分の家みたいなものだった。
学生になってからも、それはあまり変わらない。
暇さえあれば爺ちゃんの家に入り浸っていた。
でも、社会人になると少しずつ変わっていった。
仕事が忙しくなり、
「また今度行けばいいか。」
そう思うことが増えた。
それでも爺ちゃんにとって私は、いつまで経っても可愛い孫だったらしい。
たまに顔を見せれば、
『これ、持ってけ。』
と何かを持たせようとする。
いい歳になった私に、小遣いまで渡そうとする。
「もう子どもじゃないんだから。」
そう言っても、
『いいから、いいから。』
爺ちゃんは笑っていた。
そんな私も会社勤めを辞め、自分で商売を始めた。
ようやく軌道に乗せなきゃ、これからだ。そう思っていた頃――
新型コロナウイルスという、得体の知れないものが世の中を覆い始めた。
「三密」
「ソーシャルディスタンス」
「不要不急の外出を控えてください」
それまで聞いたこともなかった言葉が、毎日のようにテレビから流れてきた。
私が暮らす街から県をまたぎ少し離れた爺ちゃんの町では、外から来る人への警戒も強くなっていた。
車のナンバーを見ただけで嫌がられる。
そんなニュースまで聞くようになった頃、爺ちゃんから電話がかかってきた。
『来るんでないぞ!』
「え?」
『爺ちゃんは大丈夫だから。今は危ないから、絶対来るんでないぞ!田舎には来るもんでない!』
ずいぶん強い口調だった。
でも、分かっていた。
爺ちゃんは、自分の心配をしているんじゃない。
私のことを心配しているのだ。
私も、人の身体に触れる仕事をしていた。
毎日たくさんの人と接する。
もし自分が感染していたら。
もし爺ちゃんにうつしてしまったら。
当時、高齢者や身体の弱った人にとって新型コロナは特に危険だと、繰り返し報道されていた。
だから私も、
会いに行かないことが、爺ちゃんを守ることだ。
そう思っていた。
コロナ禍は、思っていたよりずっと長く続いた。
私の仕事も大きく変わった。
人との距離を取るために環境を整え、感染対策をしながら毎日の仕事を続けた。
ありがたいことに仕事は忙しかった。
でも、ずっと気になっていることがあった。
爺ちゃんだ。
外へ出る機会が減った爺ちゃんは、少しずつ身体が弱っていった。
やがて施設に入ることになった。
会いたかった。
でも、
「県外の方は面会できません。」
施設の決まりで、会うことはできなかった。
私自身も仕事柄、できる限り不要不急の外出を避けていた。
高齢で身体の弱った爺ちゃんに、万が一にも自分がウイルスを持ち込むわけにはいかない。
そのうち会える。
コロナが落ち着いたら会える。
そう思っていた。
でも、その日は来なかった。
爺ちゃんは施設の中で、家族の誰にも看取られることなく、ひとり静かに息を引き取った。
私は、通夜にも告別式にも参列しなかった。
その代わり、通夜の前の日。
仕事を終えた夜中に、父にお願いをした。
「少しだけでいいから、爺ちゃんに会わせて。」
自宅へ帰ってきた爺ちゃんのところへ向かった。
本当に、ほんの数分だった。
そして私は、そのまま自分の暮らす街へ戻った。
小さい頃、
爺ちゃんは私の手を握って、いろんなところへ連れて行ってくれた。
あの頃は、私の方がその手を離したくなかった。
大人になって、仕事が忙しくなって、いつの間にか、
「また今度。」
が増えていった。
そして最後は、爺ちゃんの方から言われた。
『来るんでないぞ。』
会いに行かなかったことが正しかったのか。
今でも、私には分からない。
あの頃は誰も、この得体の知れないウイルスから大切な人をどう守ればいいのか、正解なんて知らなかった。
爺ちゃんは私を守ろうとした。
私も爺ちゃんを守ろうとした。
お互いを大切に思って選んだことだった。
だから、後悔という言葉だけでは少し違う気がする。
今でも、ときどき思い出す。
小さかった私の手を握ってくれた、爺ちゃんの手。
そして、一緒に歌ったあの歌。
『おー手~手~ つーないで~♪』
何十年も前のことなのに、
あのとき爺ちゃんが握ってくれていた私の手は、今でもその感覚を覚えている。
そして、その手には今もちゃんと血が通っている。
誰かの手を握ることもできる。
誰かに触れることもできる。
伝えたいことを、伝えることだってできる。
私の手は、まだ現役だ。
あの頃の私は、爺ちゃんに手を引いてもらう側だった。
今はもう、自分の手でできることを選べる。
会いたい人に会うこと。
伝えたいことを伝えること。
大切な人のために、今できることをすること。
いつかできなくなる日が来るのなら、
できる今に、精いっぱいを積み重ねていこうと思う。
爺ちゃんが握ってくれていた、
この手で。