第二章 終活を考えるとき
ケース2「既読スルー」
母からのLINEは、頻繁に来る。
『ちゃんと食べてる?』
既読。
『今度いつ帰ってくるの?』
既読。
『お父さんがさぁ、また――』
……それは今度聞く。
私は42歳、独身、一人暮らし。
仕事もそれなりに忙しいし、帰宅したら帰宅したでやることもある。
だから母からのLINEは、とりあえず読む。
返事は、気が向いたらする。
そして、しばらく既読のまま放っておくと――
スマホが鳴る。
やっぱり母だ。
「もしもし?」
『あんた、LINE見た?』
「見たよ。」
『だったら返事くらいしなさいよ。』
「仕事してたんだから仕方ないでしょ。」
そこから始まる話は、大体決まっている。
「たまには帰ってきなさい。」
「ちゃんと食べてるの?」
「女の子なんだから、家の鍵ちゃんとかけてね。街は物騒なんだから……。」
そして、
「お父さんがさぁ――」
近所の人の話。
親戚の話。
スーパーで野菜が安かった話。
前にも聞いた気がする話。
正直、どうでもいい話が多い。
だから電話が鳴っても、
「今日はいいや。」
と出ないことも、たまにある。
どうせ急用なら、また掛かってくる。
それに――
母の声なんて、いつでも聞ける。
そう思っていた。
ある日、母が入院したと父から連絡があった。
驚いて病院へ向かったものの、病室に入ると、母は思っていたより普通に見えた。
少し安心した私に、母が最初に言ったのは、
「ちゃんと食べてるの?」
だった。
「……病院のベッドから私の心配してる場合?」
『だって、あんた放っておくと適当なものばっかり食べるでしょ。』
「食べてるって。」
『野菜も?』
「食べてる。」
『本当に?』
「もう!私の心配ばっかしてないで、自分の身体をもっと大事にしなさいよ。」
そう言うと、母は、
『はいはい。』
と笑った。
……まったく。
どっちが見舞いに来たんだか分からない。
それから二週間。
母からのLINEは、一度も来なかった。
もちろん、電話も鳴らない。
最初の数日は、特に何とも思わなかった。
母が入院しているのだから、当たり前だ。
私だって仕事がある。
父から様子も聞いている。
でも一週間ほど経った頃から、帰宅するとスマホを見る回数が少し増えた。
別に、母からの連絡を待っているわけじゃない。
そう思っていた。
十日目。
十二日目。
十四日目。
今日も、鳴らない。
既読スルーするLINEすら、来ない。
私の部屋って、こんなに静かだったっけ…。
母の病状は、私が思っていたより深刻だった。
しばらくは、入退院を繰り返すことになりそうだという。
それでも、少し体調が落ち着いてくると、母はまた電話をしてくるようになった。
『ちゃんと食べてるの?』
『戸締まりちゃんとしてる?』
病人のくせに、心配しているのは相変わらず私のことばかり。
ただ、ひとつだけ聞かなくなった言葉がある。
『たまには帰ってきなさいよ。』
前は、電話をするたびに言っていたのに。
その代わり、電話を切る頃になると、
『電話出てくれて、ありがとね。』
と言うようになった。
最初に聞いたときは、
「何それ。電話くらい出るわよ。」
と笑った。
でも、電話を切ったあと、その言葉が妙に胸に残った。
私が実家へ帰れば、きっと母は母でいようとする。
ご飯を作ろうとしたり、何か持たせようとしたり、私の世話を焼こうとする。
今は、それができない。
だから母は、
『帰ってきなさい。』
と言わなくなったのかもしれない。
そう思ったら、あんなにうるさいと思っていたその言葉まで、少しだけ聞きたくなった。
今では母から電話がかかってくると、少しほっとする。
今日も元気に小言を言っている。
その声が聞けるだけで、安心する。
以前なら、
「もう分かったって。」
と切りたくなった電話も、今はなかなか自分から切れない。
もちろん、小言をずっと聞いていたいわけじゃない。
同じ話を三回されたら、やっぱり二回目あたりから適当に相槌を打つと思う。
でも――
聞けるうちは、聞いておこうと思う。
いつか母の声を思い出したくなったとき、
『ちゃんと食べてる?』
『戸締まりした?』
そんな小うるさい声まで、ちゃんと思い出せるくらいには。
今日もスマホが鳴る。
画面には、「お母さん」の文字。
少し前までなら、気づかないふりをすることもあった。
今は――
私はすぐに、通話ボタンを押す。
「もしもし?」
『あんた、ちゃんと食べてる?』
ほら。やっぱりそれだ。