第二章「終活を考えるとき」
ケース7「最愛の夫へ。」
前回は、望未に話した。
本当はそのまま続けて撮ろうと思っていたけれど、思っていた以上に時間がかかってしまった。
気がつけば、夫が帰ってくる時間が近づいていたため、続きは翌日にしようとした。
しかし、妊婦の上に病気もち。
思うように身体を動かすことができず、結局、今日になった。
……なんて。
身体を動かすことができなかったというより、
「録画をする気になかなかなれなかった」――動かなかったのは、たぶん気持ちの方だ。
だって、まだ私は生きている。
自分で決めたことなのに、こんな動画を撮ってしまったら、それを本当に認めたことになるような気がした。
望未に言葉を残すときも、涙は出た。
私は4年前に母を亡くしている。そう。私と同じ病で。
母は、残される私たちに苦労をかけまいと、生前、コツコツとできる範囲で終活をしていた。
動画ではなかったけれど、私も母からの手紙をもらっている。
投薬の影響で、手にはもうあまり力が入らなかったのだろう。
弱い筆圧で書かれた文字。それでも、確かに母の字だった。母の字で書かれた、私への想いだった。
「母は強し」
あの頃の母が、どんな気持ちであの手紙を書いたのか。今なら、なんとなく分かる気がする。
怖くなかったはずがない。もっと生きたかったはず。それでも母は、私に言葉を残してくれた。
だから私も――娘に。望未に。何かを残せる強さが欲しかったのかもしれない。
だから、望未には話すことができた。
でも、夫とは違う。父と母の年数からしたら少ないかもしれないが、数えきれないくらいの思い出がある。
一緒に笑ったこと。
喧嘩したこと。
くだらないことで大笑いしたこと。
これから先も、そんな毎日がずっと続いていくと思っていた。
結婚してまだ5年。あまりにも短すぎるタイムリミット。
認めたくない。
死にたくない。
まだ一緒にいたい。
たぶん、それが――
私の身体を動かせなかった理由の大半なのだと思う。
それでも今日は、カメラの前に座った。
スマホを三脚にセットして、録画ボタンを押す。
しばらくレンズを見つめてから、話し始めた。
「望未の次は……」
少し間を置いた。
『そう。今、目の前でこれを再生してくれている、あなたです。』
夫と出会った頃のこと。
初めて二人で出かけた日のこと。
プロポーズされた日のこと。
一緒に暮らし始めた頃のこと。
結婚式や新婚旅行でのこと。
喧嘩したこと。
二人で大笑いした、くだらない出来事。
付き合ってからの2年と、結婚してからの5年間を、思い出すままに話した。
ひとつ思い出すと、またひとつ。
話しているうちに、私はいつの間にか、その頃の自分に戻っていた。
不思議と、涙は出なかった。
思い出の中には、病気になる前の私がいて、その隣にはいつも夫がいた。
ひと通り話し終えたところで、録画を止めた。
さて。
ここからだ。
ここから、いちばん伝えておきたいことを話さなければならない。
分かってる。
私は、この人に愛されていた。
ちゃんと分かってる。
だからこそ、この先を話し始めたら、きっと私はボロ泣きする。
…………でも。しっかりしろ、私!
伝えなきゃ。
もうすでに潤んで、今にも決壊しそうな涙をこらえながら、私はもう一度録画ボタンを押した。
「ねぇ。」
一度、大きく息を吸った。
「私、ここからきっと死んじゃうまで、あなたに、たくさんたくさんたーーくさん、迷惑かけちゃうと思うの。……ごめんね。」
「病院にも付き合わせるだろうし、具合が悪くて、何にもできない日もきっと増えると思う。」
「たぶん、八つ当たりもする。」
「痛いとか、辛いとか、もう嫌だとか……いっぱい言うと思う。」
「あなたが仕事で疲れて帰ってきても、私のことで休めない日もあるかもしれない。」
少し黙った。
「……ごめんね。」
「でもね。」
「今から先の私のことも、あなたに頼りたい。」
「迷惑かけたくないって思ってるのに、おかしいよね。」
少し笑った。
「でも……あなたがいいの。」
とうとう、涙が落ちた。
一度出てしまったら、もう止められなかった。
「私と結婚してくれて、ありがとう。」
「私をこんなに大事にしてくれて、ありがとう。」
「望未を授かったと言ったとき、私より先に泣いたの、覚えてる?🤣」
「最近なんて、もっと泣き虫になっちゃって。」
「この動画を見てる今も、どうせ泣いてるんでしょ?」
泣きながら、少し笑った。
「望未のことなんだけどね。」
「あなたなら大丈夫って思ってる。」
「でも、私の代わりまでしようとしなくていいからね。」
「あなたは、あなたのままで望未のパパをやってください。」
「間違えることだってあると思う。」
「望未と喧嘩することだって、きっとある。」
「大丈夫、望未にも言っておいたから。パパもたまに間違えるから、そのときはちゃんと教えてあげてねって🤣」
少しだけ、間を置いた。
「それから……これは言うか迷ったんだけど。」
「いつか、好きな人ができたら――」
言葉が止まった。
自分では言うと決めていたのに、いざ口にしようとすると、やっぱり胸が痛んだ。
それでも、続けた。
「その人が、あなたと望未を心から笑わせてくれて、家族になれる人なら……」
「私は賛成。」
少し考えた。
「うん……大賛成する!」
「だって、こんないい人から、そして望未から、幸せを奪うようなこと言いたくないもん!」
涙を拭いた。
そして、できるだけ笑って言った。
「だからね、前に進んで。」
「私がいなくなったことを理由に、あなたの人生まで止めないで。」
「望未といっぱい笑って。」
「美味しいもの食べて。」
「いろんなところに出かけて。」
「たまには、私の話もしてくれたら嬉しい。」
少し考えてから付け加えた。
「……たまには、だからね🤣」
「毎日私の話ばっかりしてたら、新しい人に嫌われちゃうから🤣」
また泣いて、また笑った。
「あなたと結婚できて、私は幸せでした。」
しばらくカメラを見つめた。
「望未を、よろしくね。」
そう言ってから、少し考えた。
「……違うな。」
首を振った。
「望未と、一緒に幸せになってね。」
「あなたも、ちゃんと幸せになってください。」
「約束ね。」
これで全部。
そう思った。
でも、録画を止めようとした手が止まった。
「……あ。」
「ひとつ忘れてた。」
涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、笑った。
そして、カメラの向こうにいる夫をまっすぐ見つめた。
「心から、愛してます。」
しばらく、そのままカメラを見つめた。
手を振ろうとして――やめた。
まだ、さようならを言うつもりはない。
だって私は、まだここにいる。
録画を止めた。
画面が暗くなった瞬間、堪えていたものが全部切れたように、私は声を上げて泣いた。
でも――伝えられた。
夫に何をしてほしいかではなく、夫に、どう生きてほしいのか。
そして何より、
どれだけ愛しているのか。
自分の声で、ちゃんと残すことができた。
しばらくそのまま座っていた。泣きすぎて、頭もぼーっとしている。
人生の一大イベントを、ひとつ終えたような気分だった。
…………。
あ、忘れてた。
と言ったら元も子もないけれど、
私には、もうひとり、言葉を残しておきたい人がいる。
お父さん。
ちゃんと、そのつもりだった。そのつもりだったのに――
夫への動画を撮り終えた達成感で、危うく全部終わった気になっていた。
母はもういない。
私が結婚する姿を見届けて、その後、母は先に逝った。
あのとき、父がどんな気持ちだったのか、私なりに分かっているつもりだった。
でも今は、あの頃とは少し違う。
自分が夫を残していく立場になって、
そして、お腹の中に望未がいる今だからこそ、
初めて分かることもある。
お父さんに、何を話そう。
…………。
今日は、もう無理だ。
泣きすぎて目も腫れているし、何より、心がもう電池切れだ🤣
お父さんへの言葉は――
また、ちゃんと考えてからにしよう。