Kotonoha 言の葉だより 第二章 終活を考えるとき

第二章 終活を考えるとき

ケース4「他人ですけど?」

オトンもオカンも、もういない。
兄弟は、遠く離れた県で家庭を持っている弟がひとり。
仲が悪いわけじゃない。ただ、お互い自分の生活がある。
最後に会ったのがいつだったかと聞かれると、
「……いつだっけ?」
となる程度には会っていない。

結婚?
考えたことはある。
いや、正確には考えた結果、面倒くさいから、しなくていい。という結論に至った。
子どもも欲しいと思ったことはない。
だからといって、俺は一人で暮らしているわけではない。
長年、同じ屋根の下で暮らしている女がいる。籍は入れていない。
でも、人に説明するときはいちいち面倒なので、「嫁」と呼んでいる。
向こうも特に訂正しない。
近所には友人もいる。仕事もある。それなりに楽しく生きている。
別に何も困っていなかった。

ただ、50も過ぎると、身体のあちこちにガタが出てくる。
高血圧。
関節の痛み。
糖尿病。
遺伝というものがあるなら、そのうちボケも来るかもしれない。
それにハゲ。……まぁ、それはいいとして。

最近、めまいがすることが増えた。朝も妙に身体が重い。

嫁がうるさいので、一度きちんと調べてもらおうと検査入院をすることにした。
幸い、大きな病気が見つかったわけではなかった。
年齢相応に、あれに気をつけろ、これを控えろ。
医者からありがたいお説教をいくつか頂戴して、家に帰った。

問題は、その日の夕飯だった。
嫁の料理が、まずくなった。
何を食っても薄い。
味にパンチがない。
味噌汁を一口すすって、俺は聞いた。
「なぁ。これ、味付けした?」
『したわよ。』
「薄くない?」
『薄くしてるの。』
「なんでだよ。」
『血圧高いって言われたでしょ。塩分控えなさいって。』
「いやいや、だからってこれはやりすぎだろ。味噌汁っていうか、ほぼお湯じゃねぇか。」
『だったら飲まなくていい!』
「そういうことじゃなくて――」
『あなたに何かあったら、私、絶対嫌だから!!』
「…………。」
そこまで言われると、文句の続きが出てこなかった。

俺に何かあったら、か。
その晩、なんとなく考えた。

俺たちは長い。何年一緒にいるのか、もう数えるのも面倒なくらいだ。
旅行にもずいぶん行った。
喧嘩もした。
笑った。
俺が熱を出せば薬を買ってくるし、嫁が具合を悪くすれば俺が病院へ連れて行く。
俺の血圧を知っている。
薬を飲み忘れることも知っている。
機嫌が悪いと黙ることも知っている。

そして、俺が濃い味を好むことも知っている。
だから今日から味噌汁がまずい。
……余計なことまで、よく知っている。

また一緒に旅行に行きたい。まだ行っていない場所もある。
旨いものだって食いに行きたい。(旅行の時くらいは制限解除してくれと願うばかりだが……。)

できれば、もうしばらく。
いや――まだずっと、一緒にいたい。
……味噌汁は薄くてもいい。
いや。
できれば、もう少し濃くしてほしい。
そんなことを考えていて、ふと気になった。

もし、本当に俺に何かあったら?

親はいない。子どももいない。弟はいる。遠くで家庭を持ち、もう何年も会っていない弟が。
そして俺の隣には、毎日一緒に暮らしている嫁がいる。

少し調べてみて、初めて知った。
俺たちは何十年一緒に暮らしていようが、籍を入れていない以上、こいつは俺の法定相続人にはならないらしい。
一方で、今の俺の家族関係なら、何年も会っていない弟が法定相続人になる。
「…………マジか。」
弟に財産を渡したくないわけじゃない。
あいつにはあいつの人生がある。家庭もある。
今でも俺の弟であることに変わりはない。
でも――
こいつは?
俺が先に死んだら、ずっと俺の隣にいたこの女は、どうなる?
毎日同じ家に帰って、同じ飯を食って、旅行をして、くだらないことで喧嘩して、
今日も俺の身体を心配して、まずい味噌汁を作っている。
法律上は、
他人。
「…………。」
なんだ、それ。
さらに調べてみると、遺言書を残しておけば、法定相続人ではない嫁にも、財産を遺贈する方法があるらしい。
もちろん、俺がネットでちょっと調べた程度の知識で決めるような話じゃない。
だったら一度、ちゃんと専門家に相談してみればいい。
その日、俺は人生で初めて、
「遺言書」
というものを、自分のこととして考えた。

結婚する気は、今のところない。それは今も変わらない。
今さら紙一枚で、俺たちの関係を証明してもらおうとも思わない。
でも、
何もしないままでいいとは、思わなくなった。
俺には、遠くに弟がいる。そして、すぐ隣には――
法律上「他人」と呼ばれる女がいる。

遠くの親戚より、
俺には、近くの他人なのだ。

翌朝。
味噌汁を一口飲んだ。
『ほんの少ォしだけお味噌増やしたんだけど、どう?』
「…………。」
『何よ。』
「……まあ、昨日よりはマシ。」
『何よそれ💢』
「うまいって言ってんだよ。」
『言ってないでしょ!』
「はいはい。」

本当は、
まだ一緒にいたい。
そう言えばいいのかもしれない。
でも、そんなことを面と向かって言うのは、どうにも照れくさい。
だから今日のところは、
昨日よりほんの少しだけ旨くなった味噌汁を、黙って飲んでおくことにした。

※事実婚のパートナーは、法律上の配偶者とは異なり法定相続人にはなりません。一方、遺言による遺贈など、財産を残す方法があります。実際の相続や遺言の取り扱いは家族構成・財産状況などによって異なるため、専門家へご相談ください。