第二章「終活を考えるとき」
ケース6「最愛の娘、望未へ。」
妊娠が分かった日のことは、今でもよく覚えている。
結婚してもう5年。
授かったことが、それはもう嬉しくて。
でも、本当に私がお母さんになるの?って、少し不思議で。
仕事から帰ってきた夫に、
『ねぇ。ちょっと座って。あのね、あのね😊』
なんて、もったいぶって報告した。
夫はしばらく私の顔を見ていた。
『……マジで?』
『うん😊』
『……ほんとに?』
『ほんとに😊』
そして、なぜか夫の方が先に泣いた。
『ちょっと~、なんであなたが先に泣くのよ🤣』
二人で泣きながら笑った。
男の子かな?
女の子かな?
どっちに似るかな。
名前はどうしよう。
まだ性別も分からないうちから、二人でいくつも名前を考えた。
紙に書いてみたり。声に出して呼んでみたり。
『これは?』
『うーん……。』
『じゃあ、こっちは?』
『それ、あなたの同級生にいなかった?🤣』
そんなことを何度も繰り返して、
「望未(のぞみ)」
そう、二人で決めた。
男の子でも、女の子でも、この名前にしよう。
幸多き未来が、あなたに訪れますように。
二人の願いを込めた名前だった。
まだ顔も知らない小さな命に、私たちはもう、ずっと先の未来まで思い描いていた。
5年分待った未来が、一気に動き始めたような気がした。
病気が見つかったのは、その少しあとだった。
最初は、先生が何を言っているのかよく分からなかった。
聞こえているはずなのに、言葉が頭に入ってこない。
隣では、夫が何かを質問している。
私のお腹には、ずっと待っていた赤ちゃんがいる。
そして私の身体には、病気がある。
その二つだけが、頭の中をぐるぐる回っていた。
それから何度も説明を受けた。
病気のこと。治療のこと。お腹の子のこと。
妊娠を続けた場合のこと。
治療を優先した場合のこと。
そして私たちは、大きな選択を迫られた。
この子を産むのか。
産まないのか。
簡単に答えなんて出なかった。
怖かった。
私は死にたくなかった。
夫ともっと一緒にいたかった。
まだやりたいことだってたくさんあった。
でも――
この子にも会いたかった。
何度も泣いた。
夫とも、何度も話した。
何が正しいのかなんて、分からなかった。
それでも最後は、私が、自分で決めた。
この子に会いたい。
できるのなら自分の腕で抱き、「望未」と呼びたかった。
治療について詳しい説明を受けた日の帰り。
車の中で、私は夫に言った。
『ねぇ。写真、撮っておこうかな。』
「写真?」
『うん。遺影。』
「縁起でもないこと言うなよ!!」
思っていた以上に大きな声が返ってきた。
『だって、私、もう死ぬのよ!!』
私も負けないくらい大きな声で言い返した。
夫は何も言わず、車を路肩に寄せた。
エンジンの音だけが聞こえていた。
しばらくして、
夫が泣いた。声を押し殺すこともできず、むせぶように泣いた。
私も泣いた。
病院の帰りに、こんなこと言うんじゃなかった。
そう思った。
でも、言ってしまったものは仕方がない。それに――
こんなふうに感情をぶつけてくる夫を、私は初めて見た。
驚いたのは、たぶん私の方だった。だからなのか、今度は私の方が、少し冷静になれた。
本当は全然冷静なんかじゃない。
ただ、そう見えるようにして、私は話を続けた。
『だってさ。治療が始まったら、髪が抜けちゃうかもしれないし、病気で痩せていくかもしれないでしょ。』
「…………。」
『どうせ残すなら、今の私がいいなって。』
夫は俯いたまま、何も言わなかった。
『ね?』
それからどれだけ時間が経っただろうか…。しばらくして、
「……分かった。」
夫が、小さな声で言った。
後日、写真を撮った。
出来上がった写真の中で、私は笑っていた。
『うん。悪くない。』
夫に見せると、
「これ使うの、ずっと先だからな。」
『……うん。』
二人とも、それ以上は何も言わなかった。
これで、私の顔は残る。
望未が大きくなったとき、
「これがママだよ。」
そう言って、夫が見せてくれるかもしれない。
でも――その写真を見ながら、ふと思った。
この子は、私の声を知らない。
どんな声で笑うのか。どんな話し方をするのか。どんなふうに怒るのか。
そして、
自分がお腹の中にいたとき、母親がどんな気持ちでいたのか。
私がいなくなったら、この子は全部、誰かから聞くことになる。
パパから聞く「ママ」じゃなくて。
写真の中の「ママ」でもなくて。
私から、この子に話しておきたい。
そう思った。
私は、遺言動画を残すことにした。
夫が仕事に出ている昼間。カメラの前に座った。最近めっきり泣き虫になった夫にこんなシーンは見せられない。
何を話そう…。
たくさん考えてきたはずなのに、いざカメラを向けられると、何も出てこなかった。
だから、お腹にそっと手を置いた。
『こんにちは。』
自分で言って、少し笑った。
『今のあなたは、パパに似てるのかな?それとも私かしら?』
まだ、あなたの顔を知らない。でも、毎日ここにいることは分かる。
『望未。』
初めて、カメラの前でその名前を呼んだ。
『あなたの名前はね、パパとママ、二人で決めたの。』
『まだあなたの顔も知らない頃から、二人でいっぱい考えたんだよ。』
『幸多き未来が、あなたに訪れますようにって。』
『だからね、望未……。』
少し迷ったけれど、どうしても話しておかなければならないことがあった。
『あなたがこの動画を見ている頃、ママはもう、あなたのそばにはいないと思います。だからね、ひとつだけ絶対に勘違いしないでほしいことがあります。』
『ママがあなたのそばにいないのは、あなたのせいじゃないからね。あなたが生まれてこなかったら、ママはもっと長く生きられたんじゃないかって、絶対に思わないで。』
『ママはね、いっぱい悩みました。怖かった。もっと生きたいって思った。』
『パパとも、何度も何度も話しました。そして最後は、ママが自分で決めました。』
『だから、あなたが思い悩むことは、なにひとつないのよ。あなたに会いたいと思ったことも、ママが生きたかった理由のひとつです。』
それから私は、まだずっと先の望未に向かって話した。
歩き始める頃の望未。
ランドセルを背負う望未。
友達と喧嘩する望未。
好きな人ができる望未。
そして、きっとやってくる反抗期。
『反抗期があって当然。ママだってそうだったもん。』
『でもね、パパはあなたを愛しているからこそ、言いたくないことだって言うときがあるの。だから、言われたことに反抗してもいいけど、言われたことを冷静に考えることも忘れないでね。』
少し笑った。
『……まあ、パパもたまに間違えるけどね🤣 望未に任せるようで悪いけど、そのときは、ちゃんと教えてあげてね😊』
そして――
『誰かが決めた幸せじゃなくて、あなたが幸せだと思う人生を生きてください。』
最後に、もう一度お腹を撫でた。
『望未。ママからのお願いがあります。』
『生まれてきてよかったって思える日を、ひとつでもたくさん見つけてください。』
『どんなに辛くて悲しいことがあっても、その分いいこともある。』
『辛いときは、いっぱい泣いていいの。でも、少し元気になったら、小さないいことをひとつずつ探してみてください。』
『そんな素敵な大人になってくれたら、ママは嬉しいです。』
しばらく、お腹を撫でていた。そして最後に、まだ一度も見たことのない娘に向かって言った。
『早く、あなたに会いたいな。』
カメラが止まった。
でも――
私には、もうひとり、
そう、どうしても言葉を残しておきたい人がいる。
この5年間、ずっと隣にいてくれた人。
そしてこれから、望未の一番近くで、その成長を見守っていく最愛の人。
動画を録画中、言葉に詰まったり泣きそうになったりして何度かリテイクしていたから、もうそろそろ夫が帰ってきてしまう。
今度もまた、、、いや――
それ以上に長尺の予感しかしない。
次は、夫に話そうと思う。